22.02.04

学校法人化

深草こどもの家誕生のおはなし① ―嵐山こどもの家から深草こどもの家へ

文:岡山 真理子(京都モンテッソーリ教師養成コース委員長、学校法人設立準備会メンバー)

「教師を育てることが何よりも大切」
創始者赤羽惠子先生は、まず1973年京都モンテッソーリ教師養成コースを設立されました。
時を同じくして富山大学の助教授に就任されました。しかし、時を経るにつれ赤羽先生が理想とされる幼児教育との隔たりを感じられ、退任を決意され理想を実現すべく深草こどもの家を設立されました。
その2年前に嵐山こどもの家を始められ、赤羽先生が大学に勤務されている平日に私がお手伝いさせていただくことになりました。

嵐山こどもの家の前、月見ヶ丘こどもの家の頃の岡山真理子

嵐山こどもの家

3階建が一戸に仕切られている「へ」の字型のマンションの曲がり角が赤羽先生のお住まいで、間口は狭く中へ進むほど広くなっています。丁度、扇子を半分開いたような型です。その1階と2階をこどもの家に開放されました。この曲がり角を選ばれたことに赤羽先生らしさを感じます。
1階玄関には、言語の棚、中の間には感覚教具棚、奥の間には生活教具棚と今も深草こどもの家で使われている子ども用流し台が設置されていました。
2階には数の教具棚と子ども用のレコードプレーヤーが置かれ、満3歳児さんがトントンと2階に上がり自分でプレーヤーを操作し、毎日「七匹の子やぎ」のお話しや音楽を聴いていた姿が思い出されます。
庭は一面芝生が敷き詰められ、砂場、小さな池には噴水がありました。
私の朝の仕事は環境を整えることと、モルモットを庭に放すことでした。子ども達はモルモットと戯れ、裸足で庭中を走り回っていました。
赤羽先生の「限られた空間に甘んじることなく、現状において最高の環境を子どもに提供する。」
先生の思いが伝わってきました。

当時10数名の子どもがおりましたが、自分の意のままに、それぞれの場所で生活を楽しんでおりました。
天気の良い日には近くの公園に遊びに出かけ、嵐山東公園は嵐山こどもの家の第2の庭のようでした。
夏には水着を着て桂川の浅瀬で水遊び。
冬は川の手前の空き地で雪合戦。
嵐山は紅葉の名所ですが、人気のない静寂の中での雪景色は1年で一番美しいと私は思っております。
渡月橋の袂にある岩田山(通称猿山)にも出かけました。「ポケットに手を入れない。猿と目を合わさない。」子ども達は緊張しながら山を登り山頂にある小屋に入ると、ハッとしながら、飽きることなく猿の動きを観察していました。

嵐山子どもの家の庭で赤羽惠子とモルモットを抱っこする長谷川美枝子(右)と妹(中央)。

お料理活動との出会い

ある日、保育室の一部屋が台所兼居間であったことを幸いに、お弁当のおかずを作って一緒に食べることを思いつきました。日々、モルモットの野菜を切っているこども達に、その日は、こんにゃくや人参を切ってもらい筑前煮を作りました。保育室に立ち込める匂いにつられ、「まだか、まだか」と度々催促してくる子ども達。そして、一緒に食べた時の子ども達の喜びの顔は今も思い出します。
これが、お料理活動の第一歩でした。
その後も、嬉々とした子どもの表情に誘われ、サンドイッチやお好み焼きなど数々のお料理を作りました。
お母さま方は、古いワイシャツをリフォームして、こども達のお料理用エプロンを作ってくださいました。
深草こどもの家のお料理で使用するエプロンの始まりです。
お母さま方は大変協力的で、自主的に手作りのおやつを交代で持ってきて下さったり、クリスマスや特別な日の会食も作って下さいました。
深草に移った後もバザーを発案して下さり、交わす言葉は少なくとも、保護者の方々のこどもの家への思いは未熟な教師にとって大きな心の支えとなりました。
この嵐山こどもの家の保護者の方々の精神は、深草こどもの家の保護者に今も引き継がれております。

嵐山こどもの家に思いを馳せて

子ども達は時には激しいケンカをしながらも兄弟姉妹のようにお互いを知り尽くし、大きい子は小さい子をさりげなく見守り、互いの人格を尊重しながら生活する姿を見せてくれました。

ある日、私は子どものおやつをお皿に分けていました。
赤羽先生がひと言、「同じにしないでね。」
私は1人分の分量を変えずに、中身をいろいろな組み合わせになるように考慮をしながら配分しました。子ども達はお皿を1つ1つじっと見比べ、自分が良いと思ったお皿を机に運んでいきました。
「選び」です。
日常の些細なことでも、全て大人が決めてしまわないで子どもに「選び」を与える事を示唆して下さったのです。
私は、この嵐山こどもの家の時代に教師としての多くの学びを得ました。
赤羽先生からは「全てを子どもたちのために」という姿勢を感じ取り、また「教師とは自分自身の人間としての生き方である。」ことも学びました。

嵐山こどもの家の1年目の3月に5人の子どもが卒園しました。
嵐山にある大河内山荘(往年の時代劇スターの旧別荘)のお茶室で卒園式を行いました。

深草こどもの家の誕生

1979年1月に深草子どもの家が誕生しました。
10数名の子どもと共に深草こどもの家に移ってきました。
この年の3月に7名の子どもが第一期卒園生として巣立ちました。この子ども達は3カ月を深草で、その前を嵐山こどもの家で過ごした子ども達でした。

子どもにとって美しい環境

深草こどもの家は、従来の保育室のイメージを覆すものでした。そこは、保育がなされる保育室ではなく、子どもが主人となって生活を営むことができる部屋でした。
その部屋は広く、高い天井。
床と壁面は全て木で囲まれ、子どもが机に向かって作業をしていても、外が眺められるように窓の下の腰板も低く、北側には一列に畳が敷かれ、端には和風の飾り棚。子ども用流し台の設置。
暖炉や所々に使われているレンガは、赤羽先生がヨーロッパでご覧になったであろう雰囲気が感じられます。
2階は赤羽先生が主眼とされていた教師養成の学生のための見学席。
子どもの動きを邪魔することなく、保育室全体の動きをじっくり観察することができます。
園庭には、広々とした砂場。
竹薮と木々に囲まれた豊かな自然。
園庭の一角には、梅の木と雪見灯篭。
そして風情のある冠木門。

夏の講習会(京都コース主催)の最終日には必ず深草こどもの家の施設見学が組み込まれていました。
毎年大勢の希望者が見学に来られ、従来の保育室との違いに驚きと感嘆の声を上げられていました。
この40年、モンテッソーリ教育の実践園が美しくなったように思います。
深草こどもの家は、保育の中身だけではなく、子どもにとって美しい環境を提示することで今日の保育環境にも大きな影響を与えたのだと私は思っております。

つづく
次回は、深草こどもの家の創生期と行事の始まりをお伝えしたいと思います。

 

学校法人化プロジェクト

人生100年時代、100年後も幸せであるための教育を目指して (園長 根岸美奈子)

子どもに真の意味で奉仕出来る先生を育ててくれるところは、ここしかない (京都コース講師 板東光子)

使命、情熱、そして行動!Mission! Passion! Action! 1 (保育主任 長谷川美枝子)